小説『人類のトラウマとオナニー』(5) 

連載中の小説は、数年前、別のブログ上で連載していた小説「ヨセフの妻マリア」のリライト版です。新人賞応募用に書いていましたが、だんだん長大化してきたため、応募せずにいた作品です。今回の仮タイトルは、「人類のトラウマとオナニー」としました。一番しっくりとくるタイトルを現在模索中です。固まるまで、今しばらくお待ち下さい。

少しずつ清書して、掲載していきますので、よろしくお願いします。

(5)

「私のこと、イザナミさんだと思って抱いてみたら?」
 僕は鼻息をあらげながら、イシュタルの乳首に口を重ねた。
 硬い乳首を舌で転がした。イシュタルは僕のペニスをゆっくりとしごいた。ペニスが最大限に硬く、大きくなった。
「イザナミはこんなに大きな胸じゃないし、乳首もちっちゃいよ。イグチ君、彼女の胸見た時ある?」
「生はないよ」
「小さくてかわいくて、ぷるんてはってるの。きっと今みたいにあなたに舐められること待ち望んでるよ、あの胸は」
 僕はより激しくイシュタルの胸をなめ回した。イシュタルは僕の先端をきゅっとしぼったり、軽く叩いたりした。
 僕はイシュタルのスカートを下ろし、パンツの上から彼女の股間を刺激した。
 イシュタルの手が僕のペニスを離れ、シーツをつかんだ。
 僕はイシュタルのパンツをおろした。イシュタルのヴァギナは十分湿っていた。僕は何度も舌を這わせ、彼女を喜ばせた。
「このまま入れるよ」
「まって。なめてあげる」
 イシュタルの舌が僕を包みこんだ。舌の動きより、袋を刺激する指の動きの方が気持ち良かった。
 僕はふいにいきそうになったので、腰を軽くひいた。それを合図にイシュタルはフェラチオをやめ、ベッドに寝っ転がった。僕はコンドームを探すことなく、そのまま彼女の中にペニスをさしこんだ。
「私のこと、イザナミだと思って腰をふりなよ」なんでこの女はこんなことを言えるのか、僕は疑問に思った。僕は高速で腰をふった。イシュタルが声をあげた。イザナミさんはそんな風に大きく、高い声であえがないと僕は思った。
「イシュタル、俺のこと好きなの?」
 僕は一時動きを止めて、彼女の乳房を手で愛撫しながらそう聞いた。
「イザナミよりはね」
「じゃあなんでイザナミさんのこと想像しながらセックスしろなんて言うの?」
「イザナミよりはイグチ君のこと、好きだからだよ」
 本気か嘘かはわからなかったが、僕の胸は十代の頃みたいに震えた。僕はイザナミさんよりイシュタルの方を選ぶべきだと思った。
 僕はまた激しく腰をふり出した。イシュタルも声を高くした。高級ホテルのツインのスイートルームだから、他人の迷惑なんてまるで関係なかった。
「いってもいい?」
「何回でもいきたいだけいって」
 そう言われても、僕は今日の夜まりあとやったばかりだったし、眠ってもいなかったから、この場で二回いく気にはなれなかった。
 イシュタルの中で射精を終えた後、僕はイシュタルの横になった。イシュタルは僕のペニスをしごいた。
「いいよ、もういったよ」
「でも気もちいいでしょこれ」
「うん。すごい痛い」
「いくよりも、もっと気持ちよくなれるよ」
 イシュタルの手の動きがより激しくなった。僕はいく気がないのに、イシュタルはペニスをこすり続けた。僕は体を左右によじらせ、手で頭をおさえ、悶えまくった。
「もうだめ、もう絶対だめ」
「まだまだ、もっとすごいところにいけるよすぐ」
 僕の下腹部が痙攣を始めた。息をするのも苦しくなってきたが、イシュタルはこすり続けた。両足がしびれてきた。僕はついに、気持ちよさに失神した。
 目覚めると、僕の横にぴったりイシュタルが寄り添って寝ていた。時計を見ると午後二時四十分だった。昼休みをもう一時間半以上オーバーしている。僕は起き上がり、服を着た。イシュタルも起きた。
「また働くんだね」
「定時まではね」
 僕らは急いで服を着て、部屋の外に出た。フロントに向かう途中、イシュタルは僕の腕に手を組んできた。エレベーターに乗ってフロントの階についたら、イシュタルは僕から体を離して歩き出した。
「コンビニ寄ってからにしよ」
 職場の隣にあるセブンイレブンに寄った。僕は黒豆ココアとレモンジュースを買うことにした。イシュタルはスナック菓子の売り場にいた。
「すごい健康フェチだねイグチ君」僕の買い物を見てイシュタルが言った。
「何買うの?」
「プリングルス」そう言ってイシュタルは百二十円で買えるポテトチップのミニ缶を手にとった。
「そんなの食べたら活性酸素が増えるし、肌荒れるし、夜眠れないし、体に悪いよ」
「何言ってんの。今の時代に長生きしようなんて馬鹿らしいよ。毎日好きなもん食べて暮らす方がよっぽど楽しいのに」
 僕はその言葉を聞いて、ポテトチップも買うことにした。たしかにポテトチップは信じられないほどおいしい。
  オフィスに戻ったが、相変わらず僕らの部屋は、僕とイシュタルの二人だけだった。廊下向かいの部屋の人がとったのだろう、何個か僕宛の電話メモが机の上に貼ってあった。まあイシュタルと外で打ち合わせにいっていたと嘘をつくことにしよう。
 席についてすぐ、僕は黒豆ココアを一気に飲んだ。続いてポテトチップを食べた。やっぱりとてもおいしかった。買ってよかった。
「どう? いい味するでしょ」
「うん。これがきっと生きることの意味なんだね」
「もっと味わってみて。エッチな気分でキスするみたいな気分でゆっくり噛み砕くと、とっても素敵な気持ちになるの」
 そう言ってイシュタルはポテトチップをスローモーションで食べた。僕も同じようにチップを噛んでみた。時間がとまったようで気持ちよかった。僕らは職場で何してるんだろう。
「繰り返すけど、今日のことイザナミさんには内緒だよ」
「じゃあ部長には言っていいわけ?」
「だめだめ。誰にも言っちゃだめ」
「メールでみんなに教えちゃおっかな」
「それもだめ」
「社外の友達にはイグチ君のオナニーの様子、言ってもいい?」
「社外だったらいいけど。イシュタルに指図されて、泣く泣くやったってちゃんと伝えてね」
「気持ちいいからやってるんでしょ、この快楽オナニー野郎」
 そのままだらだらと働いて、定時で僕はあがった。一緒に帰ると具合が悪いから、イシュタルを残して僕は駅に向かった。イシュタルは多分誰もいないオフィスでオナニーでもするだろう。
 僕は家に帰って、小説を書くこともなくすぐに眠った。
 翌朝目をさますと、携帯に一通メールがきていた。リリスからだった。
「明日暇? よかったら飲みに行こうよ。昼からでもいいよ。新宿で待ってる」
 土曜の二十三時に受信していた。もう日曜日の七時だった。僕はすぐに返事をうった。
「朝からでも飲みたい。僕はもういつでも行けるけど、何時に会える?」
 メールを送って僕はトイレに行った。黒酢を飲んでからシャワーをあびた。部屋に戻るともうリリスから返事が来ていた。「じゃあ十一時にアルタ前ね」
 僕はDVDを見ながらヨガをし、バレエのエクササイズをし、気功をした後、ヨハネの福音書の朗読CDを聞いた。そんな風に時間をつぶすともう十時になったので、僕は経堂駅に向かった。
 日曜の小田急各駅停車にはサラリーマンがいなかった。僕は電車の中でフィッツジェラルドの小説をまた読んだ。
 新宿駅につくと、僕はまっすぐアルタ前に向かった。
 リリスは真っ黒な薄手の短いコートの下に、鮮烈な赤色のセーターを着ていた。黒髪は肩にかかるくらいの長さで、巻き毛になっていた。
「おはよう。何飲む?」リリスの声は朝からけだるく、色っぽかった。
  僕らは日曜の人ごみの中を歩いた。今ここでイザナミさんに会うかもしれない。まあイザナミさんは新宿なんて汚い街には来ないだろうが。
 イシュタルくらいとだったら今会ってもおかしくない。あるいはヨセフにまりあ。彼女たちに会っても僕はひるまないだろう。一緒にランチがてら飲みに行こうと誘うことだろう。
 キリスト教の説教が、街頭スピーカーを通して駅前に流れていた。
「イエスは私たちの罪のために死にました」
 新宿の駅前には罪だらけのような若い女と男ばかりが歩いていた。
 同じ団体だろうか、このキリスト教の放送を、ついこの前、渋谷のスクランブル交差点前でも聞いた。その時も、快楽中心に生きていそうな若い男女が交差点をうめつくしていた。彼らの誰も説教を聞いていないようだった。聞いているのは僕だけな気がした。この放送には、何の効力も説得性もないように思えた。
 電気店の前には、ほぼ裸の、女性歌手の等身大立て看板がおいてあった。おっぱいから陰部にかけて、肌色の新商品説明が貼ってあったので、水着でもつけているのだろうが、ヌード写真にしか見えなかった。
 日曜日で、道路が歩行者天国になっていた。道路の真ん中には日本人の大道芸人や、中近東の音楽を奏でる外国人のバンドがいた。
 大学生の男が道路の中央でビデオカメラをまわし、文学少女風の女が監督みたいに側についていた。大道芸の様子でも撮っているのだろう、僕とリリスはカメラの目の前を平気で通り過ぎた。
「ちょっと紀伊国屋に寄っていこうよ」とリリスがポケットに手をつっこみながら言った。
 リリスと街に出ると、必ず僕らは最初に書店によった。そこで二人がお互いにおすすめの小説について話し、いくつか文庫本を買ったりするのだ。
「イグチ君、最近何読んでるの?」
「フィッツジェラルド」
 紀伊国屋の前に来ると、どこの本屋でもそうなのだが、人気作家の特設コーナーがあった。新刊書籍を中心に、過去の文庫本が並べてある。どこの本屋でも同じようなディスプレイだ。
「フィッツジェラルドか。オースターとか、ヴォネガットとか、チャンドラーとかは読んだ時あるの?」
「チャンドラーはないな」
「じゃあチャンドラーを探そうよ」
 僕らはエスカレーターを上がり、文庫本売り場に向かった。
「イグチ君、探偵小説は好きじゃないんだっけ?」
「そういうのって読むと全部必ず面白いから、あまり好きじゃないんだ」
「面白い理由言うね」
「ジャンルとして様式美が完成されすぎていて、当たり外れがないじゃん。文学だったら作家によって世界がまるで違うし、つまらないものは本当につまらないから、僕は揺れ幅の多い文学の方が好きなんだ」
 僕らは文庫売り場の推理小説コーナーにたどりついた。どれもこれもがミステリーものだ。凝縮された本棚に謎がこんなにもつまっていて、全ての謎は本の中である程度の解決を迎えるのだ。様式美の世界はどうも好きになれなった。
「伝統にのっとって制御された様式の中でも、いろいろな遊びができるし、流派はたくさんあるの。むしろ、決まりきった型があるから、その中でちょっとはみ出す快感があるんだよ。あなたの知らない快楽の世界」
 リリスがポケットから手をぬいて、文庫を一冊手にした。
「チャンドラーなら『長いお別れ』が有名だけど、まずこれを読んでみて」
 本のタイトルは「かわいい女」だった。原題は「THE LITTLE SISTER」。翻訳になると、どうしてこうかっこ悪い響きになるのか、いつも不思議だ。
「『長いお別れ』を読むのは、これを読み終わった後にして」  
 僕はリリスから渡された文庫を脇に抱えた。
「今、リリスは何を読んでるの?」
「サド。澁澤龍彦訳のね」
「『O嬢の物語』は読んだ? 俺はあれ、二十世紀最高の文学だと思ってるんだけど」
「二十世紀最高の文学かどうかはわからないけど、最高の官能文学なことは確かだね。昔ちょっとしか読んでなかったから、買ってみるよ」
 こうして僕はチャンドラーを買い、リリスはレアージュを買った。
「じゃあフェニキアに行こ」とリリスが言った。
 昼から酒が飲めるフェニキアというバーがこのすぐ近くにあった。僕とリリスはいつもそこで買った本を読みながら、時々談話し、カクテルを飲んでいた。
 休日の新宿は暇人だらけだった。ベトナムの平和を訴える団体が歩行者天国で記念写真を撮っていた。僕とリリスはカメラの前をまたぶしつけに素通りした。
 フェニキアのあるビルの前では、赤十字の職員が献血を呼びかけていた。
「今日はAB型の血液が足りませーん。AB型の人、ご協力をお願いしまーす」
 たいてい彼らが力強く献血を呼びかける時は、AB型の血液が足りなかった。僕はAB型だったが、良心に呵責を感じながらも、献血はしなかった。
「イグチ君ってAだっけ?」とリリスが言った。
「よく間違えられるけどABだよ」
「そう。私もABなの」
 僕らはそんな会話をしながらも、赤十字の呼びかけを素通りして、ビルの中に入った。就職活動の時、僕は赤十字も受けたというのに、何だか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 ビルの三階がフェニキアだ。僕らはいつもエレベーターがあるのに階段を使って三階に上がった。
 ドアを開ける。店内に客はほとんどいなかった。僕らは本棚の前の、一番奥のテーブルに座った。
 フェニキアには本がたくさんおいてある。特に哲学とか神学とか文学とか、インテリ系の分厚い書物がたくさんあった。それらは本当に「本」とは呼びがたく、「書物」という言葉にふさわしい分厚さと威厳を持っていた。
「いらっしゃいませ」と日曜の昼間から色っぽい声を出して、ウェイトレスがミックスナッツの入った透明の皿と、メニューをテーブルの上においた。ウェイトレスはほとんど透明の白いワイシャツに、真っ黒なタイトスカートをはいていた。
 店内にはエイフェックスツインのテクノが鳴っていた。照明は薄暗かったが、本を読めるように、テーブルの上にはヨーロッパ風のライトがおいてあった。
 僕はジンライムを頼んだ。リリスはジントニックと、トルティーヤチップスを頼んだ。
 僕は早速チャンドラーの「かわいい女」を読み始めた。リリスは本棚から、オリエントの神話について研究した分厚い本を取って読み始めた。
「かわいい女」は純粋なまでにかっこいい小説だった。主人公の私立探偵フィリップ・マーロウのストイックなライフスタイルが妙にかっこよかった。十九世紀ヨーロッパの小説に出てくる貴族のかっこよさとはまるで違う、アメリカの、二十世紀の都市に生きる男のかっこよさだった。
 僕は二十世紀になって、小説は時代に対するかっこよさ、モードの求心力を失ったと思っていた。映画やらテレビやらロックなど、その他のサブカルチャーに、時代の求心力を持っていかれたと僕は今まで考えていた。しかし、フィリップ・マーロウは冒頭の三十頁だけで信じられないほどかっこよかった。マーロウのようになりたい、生きてみたいと僕は憧れの気持ちを胸の中に膨らませた。小説を読んでそんな気持ちになったのは、大学生の時プルーストを読んで以来だった。
「どう? 初めてのハードボイルドは?」とリリスが聞いてきた。
「ストーリーや謎解きなんて関係ないんだね。ただひたすら探偵の在り方がかっこいい。僕はフィリップ・マーロウが次にどんな行動をするのか気になって小説を読んでいる。不思議な気持ちだ」
「シャーロック・ホームズだって、そんな憧れの気持ちをもって世界中の読者に読まれてきたんだよ。世界で一番読まれた本は何だと思う?」
「聖書じゃないの?」
「通説ではそうだけど、イギリス人ならホームズっていうし、スペイン人なら『ドン・キ・ホーテ』って言うんじゃない?」
「じゃあ日本で一番読まれた本は何だろう」
「うーん、『坊ちゃん』か、ミステリーかな」
「全部近代小説だね。聖書以外は」と言って、僕は気持ちよくジンライムを飲んだ。
 ホームズも、ドン・キ・ホーテも、坊ちゃんも、主人公は男だ。近代的自我の目覚めを描いている。
 ホームズはひたすら世界を観察する個人だ。産業革命のイギリスを生きる新しい知的労働者だ。
 ドン・キ・ホーテは中世的世界と近代との変わり目で、騎士道精神を生きるロマン主義者だ。憧れの姫に恋する騎士こそ、近代的自我の目覚めだと言える。ただ野獣のようにセックスするのではなく、手も触れることのできない姫に精神的に恋するのだ。下半身の欲望より、女性を優しく愛する自分自身の在り方に、騎士は陶酔できるのだ。ただ、セルバンテスはそんな騎士道物語を滑稽なものとして、皮肉に描いているが。
「坊ちゃん」は日本における近代的青年の目覚めだ。家庭のしきたりや古い価値観に縛られることなく、自由に、主体的に振舞う自己を漱石は描こうとした。
 自我の目覚め。
 それが近代小説。
 近代小説は、社会のルールに関わりなく、自分の騎士道的妄想に従ってはちゃめちゃに生きるドン・キ・ホーテとともに始まった。「ドン・キ・ホーテ」を生み出したセルバンテスは、近代小説およびモダニズムの父なのだ。
 イギリスでは、絶海の孤島で、一人思索するロビンソン・クルーソーともに、近代的自我が目覚めた。スペイン無敵艦隊を打ち破り、帝国主義とともに世界に広まったイギリスの自我は、産業革命に現れたホームズとともに完成した。
 日本では、漱石が近代的自我を明治に確立した。かつて中国から国家制度を輸入した時と同じように、日本はヨーロッパから近代的自我を輸入した。
「坊ちゃん」で活動を開始した日本の不確かな自我は、二十世紀の都市で生きる、アメリカのハードボイルドな自我を継承した、村上春樹によって補強される。
 他人との親密な関わりを拒否しつつ、魂の交流を求めるハードボイルドな男は、孤独化した都市にふさわしい自我の在り方だった。ハードボイルドな自我に一見してみられる、他者に対する無関心さは、傷つくことへの恐怖の裏返しだった。
「ねえ、イグチ君、どんなオナニーしてるの?」
 静かに本を読んでいたリリスが、思索にふけっていた僕に突然質問してきた。リリスは嫌らしく笑っていた。それは彼女がベッドの上でだけ見せる歓びに溢れた笑顔だった。
「何? ひどくプライベートな質問して」
「旧約聖書か書かれていた頃の古代オリエントの人々はね、山羊とか羊とか猿とか相手に平気でセックスしたんだって。それが欲望を処理する一般的方法として普及してたんだって。人間対人間でセックスするようになるのが文明化なんだよねきっと。限られた、パートナーとだけセックスするのが洗練なのかな。それとも、誰とでも自由にセックスするのが洗練なのかな。限られたパートナーとだけしかセックスするなって言われるとさ、オナニーが始まるんじゃないかな。誰とでも、動物ともセックスしていいって言われたら、オナニーなんてしないよね」
 リリスはどうやら今読んでいたオリエント研究の本からそんな思索を思いついたらしかった。確かに僕はイザナミさんとセックスしたいけど、今はまだセックスできないからオナニーをしている気がする。思い返せばいつもそうだった。僕は恋する人とセックスできないから、オナニーで憂さばらしをしていたのだ。
「それはまあ一理あると思うよ。恋する人とセックスできないから、代わりに僕はオナニーをずっと繰り返している気がする」
「一対一の恋愛関係じゃなくてよかったら、イグチ君は誰か他の女とセックスして欲求を解消するのかな?」とリリスが言った。
 そうだ、僕は土曜日、まりあとセックスし、同僚のイシュタルとまでセックスした、イザナミさんを好きなのにもかかわらず。僕はイザナミさんの代わりに二人の女とセックスしたことになる。三人の女性全てに申し訳ないことをしたように思う。僕がイザナミさんを誘えないから、勇気と自信がないから、他の女性を抱いてしまったのだ。
「でもさ、一対一の恋愛関係じゃなくてよい社会だったらさ、恋する人とセックスできないから、かわりに別の人と寝ようなんてそもそも発想しないんじゃないかな。多分その社会は性があけっぴろげで当たり前だから、やりたい時にやって、誰かの代わりに誰かを抱くっていう発想が生まれてこないんじゃないかな」
 僕が無言で思索にふけっていたので、リリスが饒舌に喋ってきた。
「そんな風にいろいろな人を抱けるなら、僕の心は今よりずっと解放されるだろうな。ストレスもないだろうし。けれど、僕が今生きている東京はそんな性のユートピアじゃない。まあ実際ユートピアみたいに多くの人とセックスを繰り返している連中はいっぱいいるけど、少なくともエイズや妊娠の危険があるし、日本憲法はフリーセックスを許しちゃいないよ」
「そうなんだよね。そこが苦しいところだよね」リリスは黒いミニコートを脱いでおり、真っ赤なセーターが薄暗い店内に光っていた。鮮烈だが、生地がよいので、上品な赤色だった。
「自由な性交渉を禁止した社会が歴史上ずっと発展してきたんだ。セックスにあけくれる国家を禁欲的な国家が征服してきた。セックスのことばかり考えてたら、領土拡張なんてできないよ。近代的人間像も、フリーセックスの禁止なしには、生まれなかっただろうね」と僕が言った。
「それはそうだけどさ、やっぱり憧れるじゃん、フリーセックスの国」
 リリスは僕を誘惑しているのかもしれない。しかし、僕は彼女を今日抱かないだろう、これからも抱かないだろう。愛してもいないリリスを抱くことは、僕の真心に嘘をつくことになるし、イザナミさんにも悪いからだ。
 しかし、リリスを抱くことはイザナミさんに本当に悪いことだろうか。それは僕の良心だけの問題なのではないだろうか。イザナミさんが僕のことを好いているかどうかはわからないのだし。
 いや、少なくとも、イザナミさんが僕のことを嫌いでないのは確かだ。よく日常を思い出せば、イザナミさんに好かれているのは確かだ。男として、好かれているのかどうかが不確かなだけだ。人間としては好かれているのだから、「フリーセックスの社会に住みたい」なんて言ってるリリスと僕が寝たなんてイザナミさんに知れたら、イザナミさんは僕のことを嫌いになるかもしれない。
 別にリリスが悪いわけじゃない。日本の法律および社会通念がフリーセックスを許容していないだけなんだ。おそらく良識的なイザナミさんは、僕が社会的にはみだした行為をしていると知ったら、機嫌をひどく悪くすることだろう。
 そもそも、僕は日曜日の昼、イザナミさんと二人きりで、バーで飲んだ経験さえない。こうしてリリスとカクテルを飲みながら、フリーセックスについて話している時点で、イザナミさんを僕はないがしろにしている気がした。僕はいろんな女性とセックスしているのに、本命のイザナミさんを食事に誘いさえしていなかった。
「どうしたのイグチ君、酔っぱらった?」僕がいつもより大人しいのでリリスが心配して聞いてきた。
「昨日から忙しかったからね、ちょっと疲れただけ」
 確かに僕は昨日夜通し遊んで、午後もホテルで遊んで、ハードに過ごしていた。
「でもさ、好きな人想像しながら、オナニーしてんだやっぱり」
 僕は応答に困り後頭部をかいた。答えないとリリスの言うことを認めていることになる。まあ確かにリリスの指摘事項は正しいのだが、日本人として、ここは質問を否定しておいた方がいい気がした。
「もうオナニーのことについて話すのはやめようよ」
 僕は嫌悪感を抱きながらそう言った。何に対する嫌悪感なのだろう。オナニーをする自分に対してなのか、オナニーという行為そのものについてなのか、オナニーのことについて話すリリスに対してなのか。はっきりとはわからなかったけど、とりあえず今あげた全部に対して、僕は嫌悪を感じていた。
「ごめんね、ちょっとからかいすぎた?」
 僕はジントニックを一気に飲み干した。ここでリリスと話していても埒があかないと思った。僕はイザナミさんと飲むべきだったのだ。僕は相手を間違えていた。しかし、僕はイザナミさんを誘えなかった。
 僕はどうして勇気と自信を喪失してしまったのだろう。僕は勇気と自信の代わりに、オナニーと他の女性を獲得した。それはやっぱり所詮代償だった。常にやるせなさと罪悪感がつきまとう代償。
「イグチ君、顔がとても辛そう」
 リリスがいつにない人を気づかう表情を僕に見せた。
「何でもないよ。とにかく店を出よう」
 割り勘にしてフェニキアを出た。
 しばらく僕らは無言で新宿の街を歩いた。いつもなら、僕らは夜まで一緒にいるのだが、僕はもうリリスと別れたかった。
「私はビームスに寄ってくよ。今日は何だかごめんね」
 ベネトンの前でリリスがそう言った。
「悪いのはこっちの方だよ。君を不快にさせてしまった。僕らはそんなこと望んでいなかったのに」
 リリスは別れ際、片手をあげて、街の中に消えていった。リリスの冗談を受け止めるだけの寛大さが僕にはなかった。
 僕は横断歩道を渡り、新宿駅沿いをあてもなく歩いた。
 今頃イザナミさんは何をしているだろう。病院に通っているかもしれない。僕は若い男女だけらの人ごみの中を、イザナミさんのことだけを考えてゆっくり、ベートーベンやカントが並木道を散歩するように歩いた。
 イザナミさんは僕より気が弱かった。僕よりも人見知りをし、内向的で、体が弱そうだった。彼女は僕より、知らない人を前にすると緊張していた。僕よりも肌が白く、アトピーもひどかった。普通の女性よりさらに軟弱な僕より、イザナミさんは輪をかけて傷つきやすそうだった。そのきめの細かい繊細な肌は、誰かが恫喝すれば、すぐにでも赤く腫れてしまいそうな感じがした。彼女は人一倍繊細で、いろんなことに感じやすそうだった。彼女は明らかに芸術家の感性を持っていた。
 僕はこの狭い世界で、僕よりも傷つきやすそうな存在を見つけた。僕のようなか弱い存在でも、守ってやらねば、イザナミさんはすぐにでも全身を痛めてしまいそうなもろさを隠し持っている気がした。
 もちろんイザナミさんは美しかった。人間ではなく、彫刻や日本人形のようなもろい美しさを彼女はたたえていた。しかし、僕にとっては、美しさやかわいさはもうどうでもよかった。
 僕は彼女を求めていた。僕はイザナミさんを大勢の中から見つける嗅覚を持っていた。僕の感性は彼女の傷つきやすさに反応した。僕は誰よりも彼女の不安を共有できると思った。彼女もまた、僕の不安や緊張感をわかってくれると思った。
 おそらく僕らは生まれた頃から生活に対して、同じような緊張感を感じながらずっと生きてきたことだろう。僕はイザナミさんと分かり合える気がした。人生の前にたたずむ大きな不安を二人でわかちあえる気がした。
 ただ、常に不安と緊張にさいなまされている僕は、彼女に断られることが恐くて、普通の男が簡単にできる誘いができなかった。気軽に彼女と接せられたら、どんなに楽なことだろう。僕は彼女に近づくことさえ恐かった。逆に言えば、ほんの少しでも一緒にいられるだけで、僕は幸せだった。
 もし僕が気軽にイザナミさんを誘惑できる人間だったら、おそらく僕は彼女に恋していなかっただろう。常に孤独に怯えている僕だったからこそ、僕はイザナミさんに惹かれたのだ。ある種の神経質を持ち合わせていなかったら、僕は彼女をひどく不器用な人間だと思い、相手にしていなかったことだろう。つまり僕とイザナミさんは、苦しくも、ゆっくりと平穏無事に、誰にも邪魔されず惹かれ合う必要があった。それは至極時間がかかり、はがゆい歩みだった。
 新宿の街にはたくさんの若者が歩いていた。もちろん僕も彼らのうちの一人だった。男女のカップルが多かった。僕は一人きりだった。
 イザナミさんに愛情を表現したつもりでも、イザナミさんからは僕が期待した以下の軽い返事しかいつも返ってこなかった。そのせいで、僕はイザナミさんに愛されていないのだといつも思っていた。
 しかし、それは冷静に考えれば、大きな誤解だった。僕は彼女のことを猛烈に愛していることをうちあけていないのだ。彼女を好きだと一言も伝えていないのだ。僕は彼女に僕の気持ちを否定されるのが恐くて、自分の正直な気持ちを伝えることができないでいた。僕ができることと言えば、優しくいつも見守っていることをイザナミさんに伝えることだけだった。その程度のことを伝えるだけで、イザナミさんから熱烈なラブコールを期待すること自体、僕の傲慢だった。
 本心から言えば、僕は自分を否定されるのが恐かったので、イザナミさんから僕に愛を示して欲しかった。しかし、イザナミさんは何故か僕に率直な気持ちを述べてくれなかった。それは僕が自分の愛情をひた隠しにしているせいかもしれなかった。
 イザナミさんは僕に対してあふれんばかりの好意と感謝の気持ちを示してくれていた。しかし、僕は彼女の捧げてくれた好意に決して、満足することはできなかった。僕はイザナミさんにただ一言、「好きです」と言って欲しかったのだ。彼女からの愛情を感じられなければ、僕はどんなに彼女に尊敬されても全然満足できなかった。
 僕は彼女に好きだと言えなかった。僕は女性に好きだと言って、否定された経験しかなかったため、すっかり勇気をなくしていたのだ。僕になんてまるっきり価値がないと思っていた。僕は誰にも愛される資格がないと思っていた。そんな自信を喪失した人間が、美しくて仕方ないイザナミさんを恋することは、ただひたすら破滅に向かう道を歩んでいる気がした。
 しかし、僕は自分の恋いこがれる気持ちをとめることができなかったのだ。僕は苦しむしかなった。
「あ、イグチ君、何してんのよ、飲もうよ」
 僕がロッテリアの前で煩悶していたら、偶然まりあに出会った。

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