小説「人類のトラウマとオナニー(7)」 

連載中の小説は、数年前、別のブログ上で連載していた小説「ヨセフの妻マリア」のリライト版です。新人賞応募用に書いていましたが、だんだん長大化してきたため、応募せずにいた作品です。少しずつ清書して、掲載していきますので、よろしくお願いします。

(7)

 僕はポケットから携帯電話を取り出した。番号を検索し、イザナミさんのメモリーを呼び出した。
 僕は明日の夜、イザナミさんを食事に誘おうかどうか迷った。本当はとても誘いたい。食事だけでなく、本当は休みの日にイザナミさんと映画を観たり、カラオケに行ったり、コーヒーを飲んだり、公園で語り合ったり、要するに彼女とデートがしたい。僕は仕事以外の時間イザナミさんと会って、たくさん会話し、もっと親密になりたかった。ただ、誘おう誘おうと思っても、どうしても電話をかけることができなかった。
 電話をかけて、話しながら誘うにはひどい勇気がいる。携帯のメールアドレスを知っていれば、僕はイザナミさんを気軽に食事に誘うことができただろう。ただ残念ながら僕は彼女のメルアドを知らなかった。今電話して、メールアドレスだけでも彼女に聞くべきだった。しかし僕の頭は彼女をデートに誘いたいという煩悩でいっぱいで、アドレスを聞くうまい口実などまるで思いつかなかった。
 僕は正常な思考能力を奪われていた。僕はまりあや、リリスや、イシュタルと普通に休みの日に会っているのだから、イザナミさんとも気軽に会えたはずだ。ただ、イザナミさんは、他の女性とはまるで違っていた。僕にとって近づきがたい大切な存在だったからこそ、僕は彼女にメールアドレスさえ聞くのが辛かった。
 何故自分はイザナミさんを誘うことができないのだろう、僕は怖いのだ、僕は彼女に断られることが怖い。何故そんなに怯えるんだろう、僕には自信がない、僕はかっこいいという自信がないし、彼女を異性として激しく求めているという確信もない、僕は自信をうめるため彼女の愛を必要としている、僕は何かしらの欠損感がある、僕は足りないものを埋めるために彼女の存在を必要としている、片割れである彼女の体を僕は激しく求めているけれど、自信がないから誘えない、誘えないから苦しい。
 リリスやまりあと会うのとはわけが違う。相手はイザナミさんなのだ。イザナミさんはしかし、この微妙な違いを理解してくれないだろう。イグチさんはこんなに遊んでいるのに、何故私を誘ってくれないのかと思い悩んでいるかもしれない、僕が誘えなくて苦しんでいるのと同じように。
 いつもこうだ、いつも大切にしたい女性に出会うと僕は苦しんでしまう。自分より美しい存在を好きになるから、僕は自分に自信をもてず、怯えきってしまう。かといって僕は、僕より醜い存在を好きになることはできない。僕は優越感を感じながら恋愛することができない。僕は自分より心身ともに美しく完成されている女性を愛するからこそ、いつもこんなに苦しむ羽目になるのだ。
 トイレからまりあはなかなか帰ってこなかった。普通に考えればもう戻ってもいい時間だ。化粧でもしているのだろうか、いきなりトイレで倒れたのだろうか、心配になってもきたが、それより僕にとっては、電話したいのにできないもどかしさの方が重大だった。
 頭がどんどんしぼりこまれている感じがした。胸は苦しいし、肩は緊張しているし、食欲も感じられない。頭の両側を誰かからおさえつけられているような感じがする。俗にいう恋の病だ。僕はいつも恋すると、こんな苦しく、みじめな状態に陥ってしまう。自信がないからだ。男友達に相談するのさえ恥ずかしいと感じてしまうのだから、とてもでないが、イザナミさんの電話に僕の想いがつながるはずもなかった。
 だんだんと太陽がかげってきて、客も少なくなってきた。店員も見当たらなくなり、電気は次々消され、テーブルの上には食べかけの皿とコップばかりが無造作に置かれていた。
 おかしい。携帯の時計では、まだ午後三時だった。まりあもトイレから全然帰ってこない。それでもこの妙な雰囲気に乗じて、僕は電話をかけるべきだと思った。
 ボタンを押すのがひどく怖かった。今のイザナミさんとの生温い関係に無用な緊張感を与えたくなかった。誘いを断られて、気まずい想いをするのが怖かった。けれど、今のままを続けるのも嫌だった。
 僕には知恵がたりないのかもしれない。自我を危険にさらすことなく、気楽に女性を誘うための知恵が足りないのかもしれない。しかし僕は自我の領域が脅かされるほど、激しくイザナミさんに自分の体を預けたかった。そんな激しい想いが、逆に僕の動作を重くしていた。
 僕はエデンの園にぶらさがっている知恵の実を食べたかった。あの知恵の実を食べれば、僕は苦しまずにイザナミさんを誘う方法を簡単に思いつけるだろう。恋すると僕は冷静さをなくしてしまう。冷静にうまい手段を考えれば、きっと僕の想いは成就するはずだ。
 簡単に彼女を食事に誘う方法を考えよう。まずは軽くアプローチをかければいいんだ。自我の救済にとって重大な任務だと想うから、僕の恋愛はいつも苦しく、せつなく、失敗する羽目になるんだ。これは楽しい遊びなんた。成功することが目的の楽しい遊びなんだ。
 まずは何の理由も考えずに、さりげなくイザナミさんにメールアドレスを聞いてみよう。理由なんて言わなくていい。聞かれたらその場の思いつきで答えればいいだけだ。大丈夫だ。うまくやれる。
 少し強気になってきた。どうせなら、メールアドレスを聞きつつ、食事にも誘おう。週末のデートはまだ早い。ゆっくり段階を踏めばいいんだ。僕の欠損感をうめるという大きな目的のためには、メールアドレスを聞いたり、食事に誘うことなんて実にささいなことじゃないか。大きなゴールの前の小さなステップの、そのミクロ加減を僕は確認した。
 僕はとても晴れやかな気持ちになった。携帯の小さなボタンを押し、イザナミさんの電話番号を表示した。
 携帯を耳にあてる。しかし、呼び出し音も何も聞こえてこなかった。また携帯の画面をみる。確かに画面には大きく彼女の電話番号が表示されていた。
 電話帳を開いて、電話番号表示画面にした後、電話をかけるためにはさらに、緑色の「電話をかける」ボタンを押さなければいけなかったことを今、思い出した。
 普段なら何の問題もなくぽんぽんボタンを押して、相手に電話をかけるのだが、今日は特別だった。イザナミさんに電話をかけるために、そんなに何回もボタンを押さなければいけないことがひどく苦しかった。何せ一つボタンを押そうとする度に、「本当に今電話をかけていいのか、何を話すんだ一体?、食事に誘って断られたらどうするんだ」という迷い、不安が僕の頭をしめつけるのだから。
 僕はありったけの勇気をふりしぼって、死のダイビングにのぞむ時のように、緑色の、受話器が外れる場面を絵にした「電話をかける」ボタンを押した。こんなにせっぱつまってこのボタンを押したのはこれが初めてだった。
 僕の鼓動は最大限に高まった。僕は耳に携帯電話を当てた。呼び出し音が鳴り出すまでのわずかな時間が、永遠のように思えた。
 しかし、実際携帯電話からは、ツーツーツーと話し中の電子音が、僕を突き放すように鳴り響いた。
 あれだけの勇気と苦しみと不安と緊張を体験したのに、出た音が話し中の電子音で、僕は大きく拍子抜けし、また同時にほっとした。
 店内には客も店員もいなくなっていた。ガラス越しに見える新宿駅前の通りにも人は全く歩いていなかった。時々帰りを急ぐように、警察官や警備員が駅に向かって歩いていた。
 話し中だったから、イザナミさんの携帯には僕の着信履歴は残らないのかもしれない。残って欲しかった。着信履歴をみて、「さっきは話し中でごめんなさい」とイザナミさんの方から電話がかかってきて欲しかった。彼女からかけてもらった方がどんなに楽だろう。
 僕は自分の携帯を使って、話し中でも着信履歴が携帯に残るかどうかテストしたかった。多分着信履歴は残らないだろうと思ったが、試してみたかった。
 カフェのレジ脇に、小さくてデザインのよい白い電話機があった。店員はもうどこにもいなかったので、僕は黙って電話をかりることにした。
 僕はまず自分の携帯電話から、イシュタルに電話をかけた。
「はーい」イシュタルのねむたげな声が聞こえてきた。イシュタルに電話をかけることは、僕にとって楽勝だった。
「もしもし、イグチだけど」
「ああ。昨日はおつかれさま。大丈夫。昨日のことはイザナミさんにちくってないから」
「ちょっとこのまま電話つなげててよ」
 イシュタルが何か言っていたが、僕は聞きもせずに、店の電話機から僕の携帯の番号を呼び出した。携帯を左耳にあてたまま、店の受話器を右の耳にあててみる。店の受話器からは、プープープーという話し中の音が聞こえてきた。僕は音を確認してすぐに店の受話器を元に戻した。
「協力ありがと」
「何? 何の用だったの? テレフォンセックスしたかったの?」
「そんな感じ。じゃあまた明日。おつかれ」
 僕は無愛想な声で電話をきった。
 携帯電話の着信履歴をみたが、今自分でかけた店からの電話は、やはり履歴に表示されていなかった。きっとイザナミさんの電話も僕の着信を感じていなかっただろう。
 なんだかんだで五分ほどたった。僕はまりあが腰かけていた席に座り、またイザナミさんに電話をかけた。今度も少し恐怖があったが、イザナミさんと連絡を取りたい気持ちの方が強かった。話し中という、新しい物理的な壁が、僕の勇気と行動力を奮い起こした。
 携帯からはまたしても話し中の電子音が聞こえてきた。
 僕は少しがっかりし、少しほっとした。それと同時に、彼女が一体誰と話しているのか非常に気になった。
 イザナミさんの家は都心から離れたところにあるので、電波が届かなくて電話がつながらないのかもしれないとも思った。しかしその場合、普通電話がつながらないというアナウンスが流れるか、留守電になるはずだ。電波が届かない時に話し中になる電話なんて聞いたことがない。
 僕が休みの日に電話したら自動的に話し中になるように、イザナミさんが設定しているのかもしれない。だめだ、考えがどんどんネガティブになっている。
 一番考えられるのは、女友達と長電話していることだ。僕のことについてイザナミさんが女友達に相談しているなら、幸せだった。
 彼女が電話しているのは、男友達かもしれない。イザナミさんに現在彼氏がいないことは確かだから、男友達か、彼女に気のある男か、彼女が惚れている男、その三パターンのどれかと、イザナミさんは今、長々と話しこんでいるのかもしれなかった。
 そう思うと、また嫉妬の感情が僕の胸をしめつけてきた。こんなにも苦しみながら電話をかけたのに、彼女は別の男と話しているかもしれないのだ。彼女は僕のことなんかどうでもいいのかもしれない。その男との会話を楽しみ、延々と話し続けているのかもしれない。
 イザナミさんはもしかしたら野尻と話しているのかもしれない。野尻とは、会社の同僚で、イザナミさんとただ一人の同期の男だ。野尻は背が高く、僕よりもかっこよかった。いや、僕より野尻の方が、背が高いのは客観的な事実だが、僕より野尻の方がかっこいいというのは、僕の主観的な思いこみだ。とにかく、僕は野尻にひけめを感じていた。
 最近イザナミさんは野尻と、数人の友達と一緒に飲みに行ったという。僕はまだ大人数と一緒の状況でしか彼女と飲みに行ったことがなかった。何かにつけ、僕は彼女が野尻のことについて話すといらついていた。
 イザナミさんが今野尻と電話で話しているとしたら、僕はやりきれなかった。僕が躊躇することなくすぐに電話をかけていたら、僕の方がイザナミさんと話し、野尻は話し中となっていたのかもしれなかった。しかし、これは全て僕の憶測に基づく話で、今この状況では、イザナミさんの電話が誰とつながっているのか、わかる手だてなどなかった。
 とりあえず、今度は五分と言わず、十分以上時間をあけて、もう一度だけイザナミさんに電話をかけてみようと思った。最初の僕の電話から、二十分以上たって、まだ話しているとしたら、それはきっと女友達だろう。男だったら、僕はもう芽がないということだ。チャンスをつかめなかったし、電話をかけるくらいでこんなに苦しむんだから、もうイザナミさんに話しかけるなということだ。
 それは間違った論理だ。ただ単に、偶然電話がつながらなかっただけで、イザナミさんが僕の電話を拒否したわけではない。ただ、あまりにもタイミングが悪すぎた。僕の命をかけた跳躍は、あっさりと拒否された。
 それでももう一回、最後のチャンスが残っている。三回も電話して、三回とも話し中だったら、僕は彼女を諦めようと思った。
 電話をかけるくらいでそんなに苦しむ必要はないという神の啓示かもしれなかった。かけてもかけなくても結果は同じなんだよ、今、君と彼女の心の状態にふさわしい事態が連続して起こるだけなんだよと、恋の神様からさとされている気がした。とすると、僕が彼女に懸命の思いで話しかけても、彼女の心はいつも別の人と話し中ということになる。それはつらい現実だ。ただ、僕はその現実を受けとめなければならない。
 また話し中なら、今度は別の人が彼女に電話をかけているのかもしれない。ずっと一人の人と話しているわけではないのかもしれない。だめだ、全てが憶測に基づく恐怖だ。今は事実を確認できない。考えるのはやめにしよう。
 店内はもう真っ暗だった。まりあは相変わらず帰ってこない。外の通りにも誰も歩いていなかった。僕は広い店の中で一人、イザナミさんの通話が終わるタイミングをはかっていた。
 もしかしたら、イシュタルがイザナミさんに電話をかけているかもしれない。昨日僕とイシュタルが抱き合ったことを、イシュタルがイザナミさんに暴露しているのかもしれない。
 ああそうだ、結局僕は浮気という大きな罪を体に背負っていた。ふしだらな僕が、こんなにも一人の女性に対して苦しんでいること自体滑稽だった。
 僕は浮気っぽくて、しかも嫉妬しやすい最悪の人間だ。さらには、セックスとオナニーが大好きときている。こんな僕なのだから、イザナミさんと電話がつながらなくて当然だ。当然の罰を僕は今受けているのだ。イザナミさんは、泥まみれの汚い僕なんかより、背が高くてかっこいい野尻とつき合った方が、ずっとずっと幸せになれるだろう。彼女の幸せを思えば、三回目も話し中の方がよっぽど素敵だと思えてきた。
 僕はだんだん三回目も話し中なことを期待し始めていた。そうすれば、昨日電話したのに話し中だったから、メールアドレスを教えてよとイザナミさんに明日言えるかもしれない。
 僕はイザナミさんについて考えるのをやめるために、水を飲み干した。まりあの水も飲み干した。テーブルにはもう誰も座っておらず、食べかけの皿ばかりがあったが、他人が食べたり飲んだりしたものを頂戴する気にはなれなかった。店員もいなかったから、調理場のものを食べ放題だったが、そうする気にもなれなかった。僕は自分のグラスに水をつぎ、ゆっくりと飲んでいった。
 そろそろいいだろうと思い、また携帯電話を開いた。闇の中に液晶のバックライトが光る。僕はイザナミさんにリダイヤルした。今度は何も怖くなかった。ただつながることだけを願って、僕は力強くボタンを押した。
 しかし、やっぱり話し中だった。予感通りだ。イザナミさんはきっと同じ人と話し続けている。相手は多分、彼女の女友達か野尻だ。
 僕は大きくためいきをつき、携帯電話を閉じた。すると完全な闇が訪れた。
 人もいない。虫さえいない。まりあはトイレから帰ってこない。イザナミさんに電話はつながらない。僕は新宿の駅前にただ一人、孤独に取り残された。
 店の奥にあるトイレから、水を流す音が聞こえてきた。もしかしたら、まりあが長い長いお手洗いを終えたのかもしれない。腕時計を見る。午後四時四十四分ちょうどで時計の針は止まっていた。僕はずっと電話がつながらなくて身悶えていたから、もう十時間以上時間を過ごしたような気分だった。実際外は真っ暗で、誰もいない街にネオンライトだけが光っていた。壁にかけてある時計は、店内が暗すぎて針の位置を確認できなかった。
 トイレのドアが開く音がした。トイレから、微弱な光に全身が包まれた女性が現れた。彼女は全身を白い服に包み、頭をフードでしっかりかぶっていた。彼女はレイプ作家まりあではなく、ヨセフの妻マリアだった。

Comments

全部表示されると読み込みが長くなってしまいます。「続きを読む」とかないですか。

ご指摘ありがとうございます。作者自身も前から気になっていたことでした。
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