小説『人類のトラウマとオナニー』(9) 

連載中の小説は、数年前、別のブログ上で連載していた小説「ヨセフの妻マリア」のリライト版です。新人賞応募用に書いていましたが、だんだん長大化してきたため、応募せずにいた作品です。

昨日掲載した(8)から、「ヨセフの妻マリア」とは異なるエンディングに向けてストーリー展開を変えています。少しずつ清書して、掲載していますので、よろしくお願いします。

(9)

 世界の向こう側から、僕は新宿駅前のカフェに戻ってきた。店内は相変わらず真っ暗で、店にも街にも誰もいなかった。マリアも姿を消していた。僕は吉田カバンのリュックをかつぎ、店の外に出た。外の空気は肌に冷たく、僕は一回くしゃみをした。
 南口の改札に向かって歩いた。いつもなら人で溢れ返っているフラッグスのあたりにも誰もいなかった。車も一台も通らず、電車も一本も走っていないようだった。真剣な静寂。物音をたてているのは僕の小さな足音だけだった。
 闇の中に、白く光る細い線があった。それは歩道の上をかなりのスピードで気持ち悪く這い回っていた。左右に不規則にぶれたり、時々動きがにぶったりしているそれは、一匹の白い蛇だった。蛇の皮は白銀のように光り輝いており、賢く高貴な顔立ちをしていた。近くで見ると僕自身高貴な気持ちになりもした。
 蛇は南口に向かって猛スピードで僕から逃げていった。いや、蛇は僕を南口へと導いていたのかもしれない。
 南口の改札に向かう階段の真ん中に、真っ赤なセーターを着た女が立っていた。リリスだった。彼女は上半身だけセーターを着ており、下半身は裸だった。
 リリスの白く透き通るような素足を先程の蛇が高速で這い上がっていった。蛇は深紅のセーターの中に入りこんだ。遠くからでも、生地にすけて、蛇がリリスの肌の上を這い回っているのを確認できた。
「イグチ君。今帰るとこ?」
 リリスが誰もいない状況をまるで問題にせず、僕に話しかけてきた。
「せっかくだからイグチ君も脱ぎなよズボン。脱いだらいいところに連れていってあげるから」
 僕は無言で、階段の真ん中に立つリリスを広場から見つめていた。
「連れてくってどこへ?」
「バベルの塔、西口の方にある。歩いてすぐだから一緒に行こ」
 僕はいささか躊躇しながらズボンを下ろし、ボクサーブリーフも脱いだ。
「靴と靴下もとって」とリリスが言った。
 僕は素足で広場の上に立った。もう秋で空気が冷たかった。アスファルトはひんやりとして、ざらざらした触り心地だった。
 僕は階段を上がり、リリスに近づいた。リリスの前で下半身をさらけ出すのは初めてだったし、リリスの陰部を見るのも初めてだった。リリスの陰部には縦に深く長く毛が生えていた。僕は少しだけ勃起した。
「さ、ゆっくり歩いてこ」
 リリスがそう言うと、彼女のセーターの中から白い蛇がするっと下に抜け出した。そのまま蛇は階段をつたって、デパート脇の改札の方に進んでいった。僕らは蛇の後を追うように階段を上った。
 やはり僕とリリスの他には人の存在感がなかった。夜なのに誰もいない新宿は奇妙だったが、静寂が心地よかった。いつもなら通勤帰りのサラリーマンや、大学生やら女子高生やらティッシュ配りの人やら、浮浪者やら警察官やら、人でごったがえしているのに、今日は下半身裸で歩く男と美女しかいなかった。
「リリスは僕と別れてからどこにいたの?」
「ずっと駅前をぷらぷらしてたよ。イグチ君は何してたのこんな時間まで」
「まりあと会ってオナニーについて話していた。いや、まりあじゃない、別の女性とマスターベーションについて話ていたかもしれない。今何時?」
「もう午前三時くらいじゃない。私も時計もってないからわかんないけど」
 そんなに遅くなっていたとは気づかなかった。明日は月曜だから、会社に九時には出勤する必要がある。イザナミさんにも二日ぶりにやっと会えるというのに、夜中にこんな格好でリリスと歩いていていいものだろうか。
 ほろけていた僕の頭に突然明日出勤という現実が思い出された。そしてまたイザナミさんに会えるということにも気づいた。たった二日会っていないだけなのに、また会えるのがとてつもない歓びのように思えた。
 ただ、そうは言いながらも、僕はこの二日、まりあとイシュタルとリリスと遊んでいた。イザナミさんとはできないことまで彼女たちとはすることができた。僕はイザナミさんに対する以上に、彼女たちに心と体を開いてきた。
 イザナミさんが僕にとってとても大切だったからこそ、僕はイザナミさんに対して心をなかなか開けなかった。本当は僕が一番心を開きたかったのはイザナミさんだったし、僕はイザナミさんの心と体の全てを愛したかった。全面的な開放を僕は求めていた。ただ、僕の欲望を拒絶されるのがまたとてつもなく怖かったから、僕はイザナミさんに心をなかなか開けなかった。逆に、愛したくもない女たちを僕は抱きしめて生きていた。
 僕が少し心を開くと、イザナミさんも少し心を開いてきた。もう少し彼女が扉を開いてくれたら、僕のためのスペースを開けてくれたら、僕はすぐにでもイザナミさんの中に飛びこんでいっただろう。
 もちろんイザナミさんが悪いわけじゃない。僕も彼女と同じような小さな前後運動を繰り返していたため、彼女こそ歯がゆい想いを経験していたのかもしれない。ただ彼女の心はつかみがたかったから、はっきりとはわからなかった。
 僕はおそらく誰よりもイザナミさんの心の深い場所にすみついているかもしれない。客観的に冷静に見ればそうだろうと信じたい。イザナミさんも僕の心の一番大事な場所に常に腰をおろしていた。互いが互いを重要に思っていることを僕らは伝え合ってきた。その想いの伝達はしかし、恋人としての心の交流ではなく、あくまで人間としての敬愛だった。僕はその状態に全然満足できないでいた。
 デパート脇を歩き、僕らは南口の改札近くまできた。いつもは車線が多いのに満杯の道路には、車が一台も走っていなかった。
 遠くから弦楽器の音が聞こえてくる。楽器は一台だけではない、弦楽四重奏が奏でられているようだ。その響きはもの哀しく、ロマン主義の時代に作られた曲が演奏されているようだった。静寂に包まれていた新宿に音楽がもたらされた。
 南口の改札前にある横断歩道の真ん中に弦楽四重奏団がいた。男二人が黒いタキシードを着ていた。女二人は黒いドレスを着ていた。
 男の顔をよく見ると、一人はマーラーで、もう一人はドビュッシーに見えた。マーラーは黒ぶちの細い眼鏡をかけていた。芥川龍之介みたいな髪型で、神経質そうな顔をしてバスを弾いていた。ドビュッシーはばさばさの髪を振り乱し、力強い表情をしながらも柔らかいタッチでチェロを弾いていた。彼らは不思議にも、本当にマーラーとドビュッシーにそっくりだった。
「ねえ、あそこで弾いてるの、マーラーとドビュッシーじゃない」と僕はリリスに言った。
 第一バイオリンと第二バイオリンもヨーロッパ系の顔立ちをしていたが、歴史上の人物の顔が僕には思い浮かばなかった。
「そうかもね。気になるなら、本人に確認してみたら」とリリスが言った。
「いいよ。そんな本物がいるわけないじゃないか」
「それがありうるんだよ今なら。話を聞きに行きましょ」とリリスに誘われた。
 僕らは小学校でも中学校でも高校でも、音楽の教科書に載っている作曲家に落書きをしていた。特に、マーラーとドビュッシーの二人は、名前が「マラ」と、「どびゅっ」と言う男性誌で精子が出る時に使われる擬音に似ていたから、さんざん顔に髭など書かれていたし、会話のネタにもされていた。おそらく二人は教科書に載った自分がそんなふうに扱われていることなど思いもしなかっただろう。
 ただ、マーラーもドビュッシーも東洋かぶれだったから、誰かから自分の名前の下ネタ的な意味について吹聴されていたかもしれない。とりわけマーラーは東洋の詩を自分の曲につけていたから、自分の名前がブッダを誘惑した「マラ」と同じ響きを持っていることを知って苦悩したかもしれない。
 いや、ドビュッシーだって、音楽の着想を当時流行のジャポニズムから得ている。ドビュッシーが生きていた時代から、精子の出る音は「どびゅっ」だったかどうかはわからないが、もしかしたら芸者に「あんたの名前は精子が出る時の音に似ているのよ」とベッドの中で言われていたかもしれない。
 僕らは演奏中の彼らの前で立ち止まった。彼らは演奏に集中しており、話しかけにくかった。
「近くで見てみてどう?」とリリスが言った。
「やっぱり二人とも本物かもしれない。本物も写真でしか見た時ないけど」
「ねえ、演奏中すいません。あなたってドビュッシー? そっちのあなたの名前はマーラー?」
「そうだけど」とドビュッシーが怒った声で言った、「私たちは演奏中だし、君たちと話さないように注意されてもいる」とドビュッシーが日本語で言った。マーラーはむっつりした顔で僕らをにらみつけた。
「ちょっと待って。ドビュッシーとマーラーなら、なんでそんな流暢な日本語が話せるんですか? 人をおちょくるのもいい加減にして下さい」と僕は抗議した。
「おちょくってはいない。我々はマーラーとドビュッシー。嘘偽りは一切ない」とマーラーがこめかみのあたりを痙攣させながら言った。
「バベルの塔が崩壊する前、われわれはみんな同じ言葉を話していた。世界の誰もがわかりあえていた、そういうことね」とリリスが言った。
「あなたたちも我々にかまってないで、早くバベルの塔に行ったらどうですか? 素晴らしい芸術と出会えますよ。それともここでエッチしますか」と第一バイオリンの女性が演奏を止めて言った。
「イグチ君月曜日仕事なんでしょ。早くバベルの塔に行こ」と言って、リリスが僕の手を掴んだ。僕らは手をつないだまま西口に向けてゆるやかな坂を下っていった。
 坂を下ったところにある大きな横断歩道の真ん中に、グランドピアノがおいてあり、誰かがショパンを弾いていた。
「あそこでショパンを弾いているのは誰?」
「きっと本物のショパンでしょう。芸術家がみんな今日集まってるんだよ」
 僕らはグランドピアノの横を通り抜けた。ピアノを弾いていたのは、背の低い、気の弱そうなヨーロッパ人だった。



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