納得できるまで磨くこと 

先程文学界新人賞に原稿を応募してきた。今まで応募してきた原稿は、どうせ落ちるだろうと、諦めの感情を抱きながら応募していたけれど、今回は新人賞に最初に応募した時と同じくらい期待を持って応募できた。

今までは、書いてそのまま応募していた。もちろん推敲はするけれど、自分でも納得できない状態のまま応募していた。小説は生き物だからそれでいいかと思っていたけれど、今回はじめて、自分で納得できるまで、小説を作りなおした。作品をよくしようと思えば、いくらでもよい作品にすることができる。いろんな部分を手直しすることができる。納得いくまでの手直し作業。本来手直し作業には、終わりがないものだ。締め切りがくるから、しょうがなく応募する。それまでは必死に手直しし続ける。そうした作り方を、今回の応募ではじめてやってみた。まだまだできると思った。次の作品作りが楽しみだ。

今までは、オフィスワークの合間に小説を書いて、応募できた。オフィスワークを続けながらの執筆で全然いけると思っていた。しかし、今回の制作方法をとっていたら、どんなに時間があっても足りない。小説を書くために、たくさんの時間が欲しいとはじめて思った。オフィスワークの時間がもったいない。せっせと小説を書き続けたい。時間をかければかけるほど、すばらしい作品が仕上がるのだから。

それこそ今までは、素晴らしい作品を作るとか、よい作品を作ろうと努力することは馬鹿らしいと、ポストモダン的に思ってきた。けれど、マキューアンやアレナスやマルケスやサラマーゴなど、二十世紀、ポストモダン以降の小説家たちの作品を読んできて、素晴らしい作品を造る努力を放棄することは無意味だと思った。小説の意味伝達性を、マキューアンのように信じてみることにした。サラマーゴのような、すばらしい小説を書きたいと思った。

小説を書いていても、アクセスはあがらない。なぜか。僕の書く文章は、小説よりも、評論や批評の方が面白いのだろう。小説を書くのには手間と時間がかかる。小説を書いていても、アクセス数があがるようにするには、サラマーゴみたいな小説が書ければいいと思えた。そこまで道のりは遠いけれど、目指してみることにする。

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