【文学・哲学エッセイ・サブカルチャー評論】7代後の孫への話Blog

I will not serve that in which I no longer believe, whether it call itself my home, my fatherland.

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自衛隊と侵略ではないと『友愛のポリティックス』 

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友愛のポリティックス II
鵜飼 哲 大西 雅一郎
みすず書房 2003-02-21

友愛のポリティックス I 国家を歌うのは誰か?―グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属 死を与える (ちくま学芸文庫) テロルの時代と哲学の使命 マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル

by G-Tools , 2008/11/02



航空自衛隊のトップが、論文に、先の戦争は侵略戦争ではないと書いて、更迭された。太平洋戦争が侵略戦争にあたるという認識は、日本政府の公式の認識であり、彼は政府の認識に違反した。国際社会から非難されて然るべき意見の表明であり、彼が更迭されて当然の政府対応なのだが、グーグルで「侵略戦争ではない」で検索してみると、そのような意見を表明するページが大量にヒットしてくる。そもそも、戦争とは全て侵略戦争ではないだろうか。自分が起こした戦争のことを、侵略戦争ではないと認識する者、敵こそ絶対的に悪であり、自分たちは正義の側に属していると考える者、こうした者たちこそ戦争をひき起こす、アフガニスタンにイラクに侵攻したアメリカ合衆国のように、あるいは、ワールドトレードセンターに突っ込んだテロリストたちのように。

戦争に正当な理由があると認識されれば、戦争を起こすことができる。テロリストは、国際社会の承認なく戦争というか紛争、テロ活動を起こしたし、アメリカは、反対する国が多くあったにもかかわらず、正義の戦争を引き起こした。それでは、国際社会の全てから正当だと承認されれば、戦争を引き起こしていいのだろうか。というか、そもそも国際社会に属する全国家が戦争の正当性を承認することは不可能だ。国家による意志決定の正当性もまた、立証不可能である。国家の意志決定は政府が成す。政府は国民の代表だと認識されている。世界に独裁国家は多いが、民主主義の場合、アメリカのように直接的にしろ、日本やイギリスのように間接的にしろ、選挙によって国家の代表が選ばれるが、選ばれる過程で、弱者の意見は必ず排除されている。逆に、国家の意志決定は、国民の総意を反映していると主張する政府は、全体主義国家の政府であり、そうした政府もまた、国民の意志を暴力的に略奪している。

第一に侵略戦争やテロ行為、第二に戦争を侵略戦争ではなく、正義に基づく戦争だと承認する国際社会の承認過程、第三に民主主義の多数決原理に基づく選挙(かつ、全体主義の選挙に基づかない意志決定)、これら全ての過程において、特定の誰かの意見が排除されている。およそ政治というものは、社会というものは、誰かの意見を排除する。たいてい大勢の意見が尊重されるが、テロ行為の場合は、たとえ支持する者が少なくても、己の意見を行動に移すことができる。テロ行為は大勢による承認過程を無視して成されるし、侵略戦争も同様に、大勢の反対意見を否定して成される。あなたたちが起こそうとしている戦争は侵略戦争ではない、正義の戦争だと国際社会が承認することは、悲劇を最小限におさえる暴力の発動になるのだが、その場合、戦争に反対する少数者の意見が消去去れる事は否めない。

人と人が関わる場面全てに、暴力が働いている。この暴力を消し去ることは不可能だ。愛し合う二人の間にも、友の間にも、暴力は働く。二人がなかむつまじく、永遠に幸せな生活を営む事ができるのは、死んでからである。人と人が関係をとり結べば、相手に自分の意見を押し付けたい、相手の心と行動を所有したいという欲望が生じ、権力関係が生じる。ほんの一瞬、お互いがお互いの存在を尊重し、相手を所有しようとせず、相手の自由を歓迎する場面が生じるだろうが、自由と言う言葉にもまた問題がある。自由を許すということは、あなたの意見を、私の意向に関わらずおし通してよいと承認することであり、人に暴力を振るうことを自由として承認していいのだろうかという問題がある。二人以上の人間がいて、社会を作るとして、社会の構成員全員の自由を許したら、暴力に際限がなくなる。かといって、社会構成員の自由を制御し、法に従わせようとする事は、人々の自由を略奪する暴力である。

人の関係について考える限り、どちらにしても、暴力は常に発動している。決して永続しえない、およそ存在することが不可能な、相手の存在を互いに尊重しあう関係、こうした幸福な、友愛に満ちた関係は、二人の間で一瞬生じた後、すぐに互いの心と機嫌を読み合い、相手の出方を伺うゲーム理論的関係、たえず暴力と権力が行きかう関係(「空気を読む」ことを尊重し、「空気を読めない」ことを罵倒しあう極めて暴力的な関係)に変質するのだが、それでも人は互いに関係しあうことを望む。

こんな思考の萌芽を、デリダの「友愛のポリティックス」は、読者に贈与する。読者は死者となったデリダから「友愛のポリティックス」を受け取った後、どのように思考を進めたらいいのだろう。デリダをドグマとして、盲目的に信仰するのでなく、デリダのテキストを脱構成しながら、読み進めていくには、そしてまたそうしたデリダの読みを、現実というものに還元できるとしたら(還元できる可能性が少しでもあるとしたら)、読者は何を想いながら、文化の日を生きたらいいのだろう。
[ 2008/11/02 21:32 ] 国内ニュース論 | TB(0) | CM(0)
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