只今ムージル作『特性のない男』を読書中であるが、(小説の中にそんなものが存在するとして)、作者の意図、メッセージが読み取り難くて、困っている。主人公のウルリヒは、古きよきオーストリア文化を復興しようとする、平行運動の主導者たちのロマン派的芸術観に対して、徹底的に科学的な世界解釈で対抗する。かといって、ウルリヒは科学崇拝者なわけでもない。結局『特性のない男』という小説には、真理の提示がない。この作品はエッセイであり、現実社会に対する拒否である。ウルリヒは科学的真理を実人生に適用すること、科学の応用、実学化を拒否する。「ねばならない」でなく「かもしれない」の未来に生き続けること。理念を実人生に適用するのでなく、理念を理念のまま、思考をめぐらすこと。こうした選択をするウルリヒにとって、偉大な文化、社会の復興運動は、必ず敗北にいたる無益な運動だと解釈される。
今、この文章を書くために『特性のない男』の1巻と2巻を軽く読み直したから、ある程度要約めいたことを書けたのだけれど、作品を読んでいる最中は、ウルリヒが何を企んでいるのか、どういう意図を持って発言、行動しているのか、全く理解できなかった。ムージルの小説は、決定的真理の提示を拒否する。小説を読んでいるだけでは混乱するから、ムージル自身が書いた小説作品以外のエッセイを読もうと思って、この本を手にとった。そして、講演『この時代の詩人』を見つけた。
『この時代の詩人』は、1934年の12月に行われた。ヨーロッパにナチスが台頭し、自由主義的な価値観が否定され、国家社会主義、共産主義等、集団主義が現れ始めた時代の講演である。
ムージルは講演の中で、ヨーロッパにおいて集団主義が台頭したのは、現代が始めてではないと指摘する。集団主義の思想は古典主義の時代、道徳哲学の中でその萌芽を見せていたと言う。ただし、古典主義の時代に見られた集団主義が「人間性」、「個性」をあてにしていたのに対し、現代の集団主義は反個人主義的で、人間性を破壊するものであるという点に、ムージルは注意を促している。
「かつての時代と現在のあいだには次のような相違があります。古典主義の時代以来、個人の正しい行動が精神の目標であり、法の制定にあたっても個人には広大な領域が委ねられておりました。そして「個人の正しい行動」の内には全体との正しい関わり方も大部分含まれているはずだったのです。ところが今日ではあべこべにコトが進んでいます。つまり、これは主たる方向の変更であり、同じことがらに正反対の側から手がつけられているわけです。」(p.209)
こうして反民主主義的な集団主義社会が実現していく過程にあって、詩人はいかに行動すべきか。「かもしれない」の詩人であるムージルは、詩人が共同体の支配的イデオロギーに順応することを社会が望んでいる状況に危惧を述べる。
「しかしこうした営みのさなかにも、多くの良きもの、真面目なものが存在しましたし、良きもの、真面目なものを含んだものも多くありました。とはいえそれが社会全体に対する「文化プロテスト」を内心抱いているひとびとからはいっそう顧みられなかったことも当然でした」(p.214)
この文章から、ムージルが、詩のことを社会に対する「文化プロテスト」として理解していることが読み取れる。ムージルは同時に、詩が持つ「文化プロテスト」の役割が忘れられ、社会イデオロギーの維持のため、政治のため利用されていることを憂いている。そう、まさしく当時、ナチス、共産主義の政治理念に準じる小説、詩、芸術は社会によって認められたが、そうでない、不埒な前衛芸術、古典文化は、拒否と破壊の対象となったのだ。
「人民の友と称するひとたちは幾度となく詩人に少数者のための体験を創るのではなく、「行動」を広げる中心となることを求めてきました。王侯たちは彼らの制服がありのままに再現されることすら許さなかったのですが、その反対に他の者たちは、彼ら自身の思想を再現することまでも要求したのです!」(p.215)
私たちは、ナチズムの暴風が吹くヨーロッパで、ドイツ語で小説を書き続けたムージルから何を学ぶことができるだろうか。国家的教育、実学としてでなく、オーストリアの国民作家ムージルからでなく、文化プロテストを行うムージルから、何を学ぶことができるのだろうか。
小説とは本来、プロテストではないだろうか。一方、現代の小説は、新人賞制度にしても、ケータイサイトにしても、プロテストにかけられている。プロとしてふさわしい文章を書けるのかと、現代の小説家は、絶えずプロテストにかけられている。小説家は自分に持ちかけられるプロテストに、抗議=プロテストせず、プロテストを受け続ける。新人賞においては倍率2000倍の試験で、グーグル化するネットのクラウド状況においてはそれ以上の高倍率で、パソコンで小説を作る詩人たちの多くは、落選を経験し、自信を喪失している。
現代の小説家、詩人に必要なのは、文化のプロテスト受けることでなく、文化にプロテストすることだろう。詩人の倫理、道徳とは、プロテストに合格するにふさわしい文章、作品を創造することに自分の才能を浪費することではない。それは社会に順応するということ、よく言えば大人になるということ、妥協するということに過ぎない。そうではなく、社会にプロテストを送り届けること、裂け目を作り出すこと。文化産業が著しく発展する現代社会において、社会における詩人の存在意義を守るために必要なことは、文化プロテストの理念を作品化すること、それだけである。
このブログは、自分という人間の名前を売ること、世に広めることを目標に、更新してきたが、これからは、プロテストに受かるためでなく、プロテストするために、書くことにする。今まで私が作ってきた、自分以外の問題、文学以外の問題をテーマにしたブログなりサイトでは、プロテストをわずかばかり実践できたけれど、自分の名を広めることを目的としたサイトでは、いつも実践できずにいた。私はプロテストされる側に自分をおくことに躍起になり、アクセス数なり検索ワードなりを気にしてばかりいた。検索ワードの人気がある記事を書くことは、既存社会に受けいられようとする媚に過ぎない。自分の名前を売るためでなく、社会という素材を作品化することを目標に、ブログを更新し続けることにする。
今日、このブログの意義が変わった。小説をアップしてもアクセス数が上がらない、小説よりも書評や時事問題を書いた方がアクセスがあがる、アクセス解析によって心の迷いが何故生じたのか。小説をプロテスト合格のために書いていたからだ。プロテストに受かるためでなく、プロテストするために文章を書くこと。現代における敵、小説の素材は、個人主義を破棄する集団主義でなく、グローバル化という名のもとに人間性や、動植物の環境を破壊していく、人間不在の個人主義である。ムージルの時代には人間性を破壊する集団主義が吹き荒れたが、現代には、人間性を破壊する個人主義が吹き荒れている。これを詩人が放置して、あるいはこれに詩人が同化して、何ができるというのか。