【文学・哲学エッセイ・サブカルチャー評論】7代後の孫への話Blog

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書評:アドルノ『道徳哲学講義』 

道徳哲学講義
道徳哲学講義Theodor W. Adorno 船戸 満之

作品社 2006-08
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批判理論の思想家アドルノによるカントを中心とした道徳哲学の講義を文書化したもの。はじめにアドルノは、現代において道徳哲学を語る問題性を指摘してみせる。「地域的民族的特殊性に制約された道徳に対する反感」(p.20)とも表現されるそれは、現代において、「正しい生活」は定義できないという諦念、ニーチェ的批判精神に連なっているという。道徳(モラル)は語源的に、社会の習俗に属する。プラトンは、古代ギリシアの社会習俗が滅びそうだったからこそ、哲学を説いたのであったが、現代では、個別社会の習俗に過ぎないはずの道徳、「正しい生活」の定義を、人類普遍のものとして扱っていいのかという問題があるの。一方、アドルノは、倫理(エートス)と言う言葉にも危惧を述べる。倫理(エートス)は、その語源的に人間の本来的性質に関わるものである。人間が本来的、自然的に行動すれば、正しく行動できるという倫理的な言辞は、道徳が提示する人間の個別性と普遍性の間の相関関係と言う問題をぼやけさせてしまうとアドルノは指摘している。故にこの講義録は、倫理でなく、道徳の哲学を扱うのである。

プラトンによって書かれたソクラテスは、物事に関する正しい知識、真理を得ることで、正しく生きることができるとした。哲学とは、知を愛することは、古代において道徳と等しかった。カントは、純粋理性と実践理性を分けた。純粋理性は人間の認識能力に関わるものであり、どう生きるべきかという行動規範の領域にはふみこまない。一方、実践理性は、人間が生きていく上での法則、真理の法廷を扱う。カントにとって実践は、実際的行動的という通俗的意味でなく、人間の行動、行為をあらわすものである。実践を扱う理性は、人間に、人間として行動すべき普遍法則を提示する。これは神から人間に与えられたものでなく、人間が自律的に獲得すべき普遍法則であるという。人間一人一人は違う存在であるはずなのに、何故行動の普遍法則が成立するのか。カントは突き詰めて考えていけば、全ての人間に適応される、普遍の行動法則があると信じていた。その法則を自己に適応するかどうかの選択は、個々人に委ねられているのだが、人間が、最高度に自分を意識すれば、いずれ到達する法則であるという「格率」。アドルノはカントの考えに含まれる矛盾を指摘する。普遍法則があるとして、人間の自由は何処にあるのだろうという問題が頭にもたげてくる。

アドルノは、古代より哲学の伝統において、自由という概念は、通俗的に考えられている自由とは異なると指摘する。哲学的な自由とは、自分の欲望、快楽、苦痛から、理性的思考によって解放された状態であることをさす。すべからく哲学は、肉体的快楽からの解放、自由をうたってきた。こうした大前提にたてば、カントのいう普遍法則も、人間の自由な思考の果てに到達しそうなのだが、しかし、普遍法則であるにもかかわらず、その法則を人間は選ばないこともできるのだ。ここには明らかな矛盾があるのだが、アドルノはカントとともに、その矛盾を矛盾のままたどることを受講者に勧める。

誰にも妥当する普遍法則としての道徳。近代市民社会の勃興期にあって、カントが唱えた堅苦しい義務の哲学は、プロテスタントのブルジョワ的勤勉の価値観を反映したものでもあった。近代が進展してくると、ニーチェ、カフカ、マン、ブレヒトらが指摘したように、カントの提唱する普遍法則を実行しようとする人は、世界に不条理をもたらす。道徳的な法則を実行しようとすることで、世界に非道徳的な破壊行為が発生するのだ。アドルノは最終回となる第十七回講義において、現代において「正しい生活」を志向することは可能か問うている。

「とりわけ、道徳哲学の分野で行われる検証作業が、それなりに正しい生活の基準を構想できるであろうなどと約束することは出来ません。なぜなら生活そのものが歪められ、ねじ曲げられているから、結局、誰もがその中で正しく生き、自己の人間的規定を実現できる者はいないからです。それどころか私は次のように言いたい、すなわちこの世界の仕組みからすれば、誠実と品位をごく率直に要求するだけで、ほとんどすべての人間を必然的にプロテストに向かわせずにはおかないとさえ、私はいいたい。」(p.278)

「私が言わんとするのは、洞察による限定否定のことであり、私たちに強いられる一切のこと、これまで世界が私たちから作り上げた一切のもの、これからも限りなく度を強めて私たちから作り上げられる一切のものに抵抗する力のことです。(…)この抵抗は、私たちが同調を誘惑されがちな一切の傾向に対する抵抗として私たち自身の内部で示されなければならないでしょう。」(p.278)

道徳が破壊や暴力の限りをふるってきた現代社会においては、現代社会が私たちに提示するものに対して抵抗することが、道徳になるという逆説をアドルノは繰り返す。現代において、己の正義を主張するものは、疑わしい。自己の正義を主張することは、その正義を遵守していない他者の存在を否定することにつながるためである。徳という概念が全て疑われた現代において、唯一許される徳とは、「謙虚」であるとも言われる。道徳の最大の批判者ニーチェは、既存の奴隷道徳に代わり、超人の理想を提示したけれども、その新しい価値もまた、別の残忍さを発揮する可能性がある。では、我々の時代の道徳哲学とは、「正しい生」とはどのように定立されるべきなのか。

「道徳哲学の場は、今日では、人間存在の漠然とした抽象的定位よりも、非人間性を具体的に告発するところに求められるべきであるといいたい。」(p.290)

アウシュビッツを経験した後の現代社会において、非人間的労働と生活が流布する現代社会において求められるのは、全ての個人を非人間性におとしこむ状況から救い出すための抵抗を試みることだろうか。
[ 2008/11/22 19:27 ] 書評(人文科学) | TB(0) | CM(1)
「初めての相手」ってだけで感謝される(*´∀`*)
私的には男性に喜ばれてるのが嬉しいし、いっぱい気持ちよくしてあげたいし。。(/ω\)
もっと色んな男性のお手伝いしたいなぁ・・なんてヽ(・∀・ )ノ
[ 2008/11/23 21:52 ] [ 編集 ]
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